人生50年

 ブログに書くことなのかどうかすらわからんが、とりあえずメモ。
 なんとなく自分の寿命について考えてみた。右手の生命線は手の甲まで達しているので、とりあえず80歳くらいまでは余裕で生きられそうな気がする。しかし!80歳まで生きてどうしようか?
 余生のたしなみとして釣りにいそしもうかとも考えたけれども、「老人と釣り」っていかにもまとまっちゃってるような図式でなんだか嫌だな。シーバスをルアーでガシガシおじいさんとかだったら逆にカッコいいけれど。俺は海釣りがめちゃくちゃ好きなのだけれど、80年後の日本の釣り場なんて汚染やら釣り人やらで荒れまくっている気がする。中学生の頃、毎月何かに取り憑かれたように関東の陸っぱりに通っていたのだけれど、年々釣り場が荒れてきているのは、中学生ながらに感じられた。魚がスレていたり、根魚がいなかったり、様々な形で感じられた。と、すると釣りという趣味が楽しめるかというといささか不安が残る。
 いまさら60年後の趣味を危惧してもしょうがないわけだけれども。
 しかし長生きすりゃいいってもんでもあるまい。無駄にダラダラと生きるより、ギュッと50年くらいにコンパクトにまとまって生きたいものだ。大体歳をとれば身体にガタはくるし、見た目ヨボヨボだし、下手すりゃ普通にボケてしまうわけだ。それよりも若いうちにドゴッとなんかやってサッと綺麗に死んでしまったほうが楽しいような気がする。いや、積極的に死ぬことをを肯定しているわけではなくて、無駄に生きることを憂いているわけなんだけれども。どこかのパンクロッカーみたいなこと言ってるなあ。やりたくないことダラダラやるより、やりたいことだけやるみたいな生き方はやはりわがままなのだろうか?よくわからん。
 坂本龍馬は常に死を意識して生活をしていたという。それだけに独特の雰囲気を纏っていたみたいだ。「龍馬がゆく」かなんかで読んだけど、「100歳まで生きる乞食もいれば、3歳で死んでしまう大名の子息もいる」っつうのはやっぱり真実なんだよな。どんなに手を尽くしても助からない命があれば、どんだけ傷だらけになっても生きていく命もあるわけで。それならもう本当に人生50年のようなノリで毎日を生活できればいいなあと思うわけです。
 と、いうわけで今年の目標は「やりたいようにやる」。遠慮してやりたいことできずに、事故とかでいきなり死んじゃうとか嫌です、やっぱり。取りあえず俺はやりたいことがあと・・・いくつあるんだろ?よくわからないけど、とにかく今俺は死ねるかっていうと絶対死にたくないっていうのは明白です。まだオーロラ見てないし、うーん、やりたいことは生きてるうちにどんどん出てくるのかもしれんなあ。
 これまで多くの偉人たちが自殺してきたけれど、それはやはり意味があることなんだと思う。中村一義が「全ての審判は死ぬ日で充分だ」とうたったように、死ぬ日っていうのは人生の総括であってほしい。エレカシも歌っているけど、侍が切腹することによって最大限に自分を生かせる理由っていうのは、このへんにあるんじゃないのだろうか。これから生きていて良いこと悪いこと山ほど起こるだろうけれど、とりあえずそれは大した問題ではない。いよいよ死ぬだろうって日に、いけてる人生だったかイマイチな人生だったか決められるかが肝要な気がする。
 まあ不慮の事故で死んでしまうことももちろんあるだろうから、日頃いつ死んでもいいような準備はしておくべきなのかもしれない。ってすごいジジくさいこと言ってるな。まあいいや。それなりに歳をとったアーティストとか偉そうな人が「俺はいつでも死ぬ用意ができている」みたいなことをインタビューで言ってたりするけど、あれってどういう心持ちなんだろうね。青二才にはさっぱりわからん。取りあえずハイロウズの「即死」みたいな感じで死ぬのも、それはそれでアリかな。
 あ、そろそろ風呂沸いたかも。