寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 ヤクザ者になろうとか自殺のすすめとか月光仮面は変装癖のある中年男だとか正義とはとか競馬の話とかがごちゃごちゃーと語られている本。
 いや、それは屁理屈だろうという部分もあって、いわゆるネタみたいな内容も多く書かれているんだけど、こういう考え方もできるんだなあと新鮮に感じる部分もまた多く書かれていた。
 自殺のすすめとかいうと眉をひそめる人もいるかもしれないけれど、自殺するにはライセンスが必要だとするあたりに巷に氾濫する自殺マニュアル本とは一線を画している部分があると思う*1

背広もアパートも食事も、なべてバランス的に配分したら、ぼくらは忽ち「カメ」の一群にまきこまれてしまう。

夫たちは、団地アパートの布団の中で妻の寝息をききながらふと考える。「おれの中のハックルベリー・フィンはどこへ行った?」

だが一体、われわれは命を賭けるに足る何かを持っているか?

 世にもあわれな女というのが嫌いである。大体、運の悪い女というのが嫌いなのである。どんな大難をくぐりぬけても、いつもニコニコしていられる女のなかに、ほんとの哀しみを見出したときに、そんな女につよく魅かれるのである。

だから、精神はどんなに崩壊し、使いものにならなくなってしまっていても、ウワベだけはきちんとしなければダメですよ、「おっさん」といった。

目標が<場所>ではなくて<行為>だったということである。

「本来の姿」などというのがあるわけはないがこうした虚業意識のあるうちは、まだ「病気」で済む。

しかし、本当に怖いのは、実は原爆でもお化けでもなくて「何も起らない」ということなのではないだろうか。

自殺が美しいとすれば、それは虚構であり、偶然的だからである。

なぜなら、その“足りない何か”を考えることによって死の必然性がなくなってしまうからである。

「死にむかって自由になる」のではなく「生の苦しみから自由になる」というのでは敗北の自由であることに変わりがないのだ。

じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです

*1:他に自殺をすすめる本を読んだことがないのでよくわからんけど、なんとなく