太宰治「女生徒」

女生徒

女生徒

 内省的。ある女生徒の日常生活と、彼女の脳内に浮かんでくることの羅列。懐かしくて切なくて冷たい。この冷たさがリヤル。
 短編集だったが、タイトル作品だけ読んで終わる。やっぱり太宰治は寝る前とか寒い日のお風呂の中などで読むべきであり、決してタイの夜行列車の中なんぞで読むものではない。と改めて感じた。そんなに読んでないのだけれど。
 昭和初期の「きっと」って、平成で使う「きっと」よりも強い語意を含んでいるんだろうなと感じた。

私たち、愛の表現の方針を見失っているのだから、あれもいけない、これもいけない、と言わずに、こうしろ、ああしろ、と強い言葉でいいつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。誰も自信が無いのかしら。

まあ、まあ目立たずに、普通の多くの人たちの通る路をだまって進んで行くのが、一ばん利巧なのでしょうくらいに思わずにいられない。

嘘をつかない人なんて、あるかしら。あったら、その人は、永遠に敗北者だ。

自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛して行きたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのはおっかないのだ。

美しい夕空を、ながいこと見つめたから、こんなにいい目になったのかしら。しめたものだ。

美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。

強く、世間のつきあいは、つきあい、自分は自分と、はっきり区別して置いて、ちゃんちゃん気持ちよく物事に対応して処理して行くほうがいいのか、または、人に悪く言われても、いつでも自分を失わず韜晦しないで行くほうがいいのか、どっちがいいのか、わからない。

愛情の深すぎる人にありがちな偽悪趣味。

何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあとなだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。

きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。